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「万全の配慮」で信長を感激させた家康

史記から読む徳川家康㉖


7月9日(日)放送の『どうする家康』第26回「ぶらり富士遊覧」では、妻子の死から2年後の徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)の様子が描かれた。すっかり覇気を失い、織田信長(おだのぶなが/岡田准一)の言いなりに見える家康の姿に、家臣たちは疑念と失望を抱くが、家康には揺るぎない信念があった。


 

信長にへりくだる家康の本心

静岡県富士宮市にある白糸ノ滝。高さ20メートル、幅150メートルの湾曲した絶壁から数百の滝が流れ落ち、天下の名瀑として名高い。信長が富士遊覧で訪れた地のひとつで、鎌倉幕府を創設した源頼朝が訪れた場所としても知られている。

「信康事件」から2年が経過し、織田・徳川と、武田との戦いはいよいよ大詰めを迎えていた。

 

 そんななか、高天神城(たかてんじんじょう)の落城が多くの武田家家臣の離反を招いた。武田勝頼(たけだかつより/眞栄田郷敦)の力は大幅に削がれ、両軍の力の均衡が崩れつつあった。

 

 武田家に対する恨みを募らせる徳川家家臣たちは、勝頼の首を獲る好機と意気込んだが、主君の家康が力を注ぐのは、武田攻めに乗り込んできた織田信長への接待だった。その間に勝頼は討死。信長の嫡男・信忠(のぶただ)に功を譲ったのでは、と家臣たちは家康の態度に疑念を持った。

 

 武田家滅亡後も、家康の信長接待は続いた。信長に媚(こ)びる姿を見ていられない本多忠勝(ほんだただかつ/山田裕貴)や榊原康政(さかきばらやすまさ/杉野遥亮)らが反発心を強くしていたある晩、酒井忠次(さかいただつぐ/大森南朋)に連れられ、家臣一同が家康のもとに馳せ参じた。本心を打ち明けて欲しいという。

 

 家康は迷いのない様子で「信長を殺す」と言い放った。さらに「わしは天下を取る」と静かな口調で家臣たちに宣言したのだった。

 

天下統一に王手をかけた織田信長

 

 徳川家康が、遠江国(とおとうみのくに/現在の静岡県西部)での武田軍の拠点・高天神城(静岡県掛川市)を囲むようにして砦を作り、兵糧(ひょうろう)攻めを始めたのは1580(天正8)年10月のこと(『家忠日記』『三河物語』)。これに対抗して武田勝頼も出陣を決めたが、軍勢を動かすことはなかった(「武田勝頼書状」)。

 

 翌1581(天正9)年1月、高天神城に籠城していた武田兵らは降伏を申し出た(「織田信長朱印状」)が、家康は信長の指示によって降伏を拒絶。

 

 2月に勝頼は武田家の居城である躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/山梨県甲府市)に修築を施す一方で、新たな拠点とすべく新府城(しんぷじょう/山梨県韮崎市)の築城を開始した。武田家重臣のひとりである真田昌幸(さなだまさゆき)の勧めがあったようだ。

 

 3月22日には、餓死者が続出して耐えきれなくなった高天神城の武田軍が城を打って出た。この時、岡部元信(おかべもとのぶ)が先陣を切って徳川軍の陣に突撃したが、大久保忠教(おおくぼただたか)の軍勢が迎撃。元信は討たれ、高天神城が落城する(『家忠日記』『三河物語』)。

 

 9月、勝頼の築いた新府城があらかた完成した(『武州文書』)。なお、同時期に勝頼は織田家との和睦を試みているが、失敗に終わっている。11月にも、人質だった信長の子・御坊丸(ごぼうまる)を送り返して和睦を図ったが、信長が受け入れることはなかった。そして1224日、勝頼は躑躅ヶ崎館から新府城に移転を済ませた(『理慶尼記』)。

 

 また、同年9月に勃発した天正伊賀の乱(てんしょういがのらん)において織田軍に駆逐された伊賀の柘植清広(つげきよひろ)という武士は、「伊賀のもの共皆織田家をそむき。當家に屬せんとす」(『武徳編年集成』『伊賀者由来書』)と、同年中に家康の配下になったらしい。

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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